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「たずね来てとはばこたえよ都鳥、隅田河原の露と消へぬと」京都北白河の吉田少将惟房の一子梅若丸が信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へ下る途中、隅田川畔に捨てられた。貞元元年(976)3月15日、12歳で病死したが、このとき残した歌がこれ。謡曲『隅田川』に出てくる哀話で知られる。梅若丸を哀れみ、里人たちが塚を築き毎年3月15日(新暦4月15日)に供養したのが梅若忌の始まり。法要は午後1時から。住職さんに頼めば、梅若の話を聞かせてくれる。
墨田区東堤通り2-16-1
白鬚神社大祭→6月の第2土・日曜に行われる祭礼、近年「あおり獅子」の舞が復活。多くの人出でにぎわう。氏子の図子名も残り、伝統を感じさせる。大きな神輿の出る本祭りは、3年に一度。
墨田区東向島3-5-2
向島百花園は、文化元年(1804)に佐原鞠塢により造園された。日本橋住吉町で骨董屋を営み生来の風流気質で一流の文人墨客と交流ももち通人として知ら れていた鞠塢は、当時江戸で流行していた園芸趣味に興じ、店をたたんで寺島村の田園に風流人達寄贈の梅三百六十株を植え梅園を開いた。
当時亀戸の梅屋敷に対し新梅屋敷として知られ格好の行楽地として栄え、その後も名花名草が集められ自然のままの趣きをもち風流の極致をゆく庭園は、百花園と呼ばれるようになった。
墨田区東向島3-18-3
向島の道
参考文献一覧
向島の道 著者紹介(はしがき)江戸時代、天下の名勝の地と詠われた向島の姿は今はもう無い。
かくのごとく見事に向島の景勝を失わせたものは何なのか。ことに無念やるかたない思いである。どうしてそうなったのか……。やはり明治維新後の時代の流れというものがあったという以外ないようだ。
明治近代国家の建設!それは殖産振興の名のもと欧米に追いつき追い越せの時代、国力増強は国家目標であった。生産第一、工場立地優先。国際競争力をつけるだけに急で、内政問題である都市問題は二の次ぎであった。都心部には開放した広大な武家地が残り、国家機関はそれを利用することで足りた。
それでも近代都市としての基盤を作るため、道路の拡張、上下水道の整備、鉄道・港湾など近代国家の体制作りに励んだ。銀座煉瓦街や官庁街計画はその産物である。江戸の巨大な城下町の遺産があったため、明治政府は都市を造るという発想は少なく、小規模な都市改造で当座間に合わせた。
明治21年の市区改正条例も市街地中心周辺の基盤整備が主で、軍備拡張が優先された予算削減で思うように進捗しなかった。わずかに道路拡張・上水道設備設置・日比谷公園の建設程度で終わった。
しかし、明治後期になると市区改正の道路拡張によって、路面電車や郊外電車という交通機関が登場したり市民生活の行動範囲が広がりをみせた。その変化は更なる都市改造の必要性を促した。その頃、後藤新平が登場し、大正8年に都市計画法と市街地建築物法が公布された。その法案も成立審議のなかで当時の大蔵省の反対により財源が大幅に削減され骨抜きにされた。しかもそれの地形図測量の段階で、大正12年(1923)の関東大震災が発生する。
災害復旧のお陰で、帝都復興計画の大事業が動き出し、焼失区域の大規模な区画整理が実施された。現在の東京の市街地は、空襲による戦災後の復興計画が挫折しているので、この帝都復興時に行われた開発整備以上出ていないのが現状である。
そんな時代のなかで、向島の場合はどうであったのか。
周辺郊外地であった向島は帝都復興計画でも区域外であったため何の整備も手当ても受けてない。しかし既に、明治時代から近代工業化を目指す波が近郊地帯の向島にも及んでいた。水運と安い土地。向島は工業立地に適合していた。景観を保存する発想・余裕など微塵もない明治・大正の産業拡張の忙しい時代。向島はただ工場向きというだけの地になっていた。大・中の工場が進出し働く人の建物も建ち並びはじめた。
関東大震災後は被害も少なく計画区域外であった向島には焼け跡の整地を待つのももどかしく、震災前にも増して大中小の工場、下請けの町工場などが殺到した。建築規制もなく、田んぼ・畑地、空いている土地を見つけては侵食するように建ち並んだ。
職工さん達の棟割長屋・借家・アパート、それに商店も、道路を造って建てるなら良い方で、狭い路地、行き止まりの土地にも建てた。田園地帯は忽ちにして無秩序な不良住宅(都市計画者側のコトバを借りれば)の密集地帯に変貌した。今の向島の原型はこうして形成された。
帝都復興事業によって市街地整備が一段落した昭和2年に都市計画街路網が決定した。これは東京郊外部の人口が震災後3倍に増加して、都市中心部との交通網の整備が必要になったこと、郊外新市街地のスプロール化(無秩序な宅地化)の防止を目的にしていた。
昭和7年10月、隣接する五郡八十二町村が東京市に合併。それに先駆けて発足した都市計画道路網設計があった。遅れ馳せながらこれが始めて向島にも適用されたわけである。
だが、ほとんど出来あがっていた向島の町を動かすのは大変だった。そこで線引きで明治通り、水戸街道を貫通させた。その後、昭和10年前後に押上通りなど中規模の道路が数本開通した。それが今の向島の町並みである
東京の近代化に貢献したが、向島の失ったものは大きかった。
時代がそういう時代だったから……。東京の都市計画にも問題点があったから……。と言っても市街地膨張の勢いはどうしようもない時代の流れであり、それが向島を変えた。
昭和4年。そんな時に私は生まれた。
だから正直言って向島という街はきれいではなかった。細い道や曲がった道、狭い路地がやたらと多い。子供の頃はドブが多く,路地も土だったので雨の時はぬかるみ水溜りになった。今ではドブは暗渠になり、路地も舗装され、いくらかましになったが…。
そういうところだったので、軒と軒がくっついた小さい家、長屋、商店、町工場などがゴチャゴチャ建ち並んでいた。
大道りといえば、明治通り、水戸街道だけであった。当時は改正道路と呼んで新しい道路というイメージがあり、コンクリート舗装の広い道が真直ぐ伸びて、それに歩道も付いていたので恰好がよかった。子ども心にも近代を感じた。
遊びに使っていた路地や狭く曲がりくねった道は、道には違いないが、遊びの場の延長みたいな感覚で、道というより、かくれんぼや探偵ごっこで隠れる家の軒かげを探す近道・遊び場の延長であった。
ときどき祖母や叔父などから聞く、「向島は綺麗なところだったんだよ」とか、「隅田川には白魚が釣れたんだよ」と言う言葉は俄かには信じられなかった。そういえば、近くにはまだ自然の名残りはあった。いなごやとんぼ釣りをした原っぱがまだあった。チャンバラごっこをした築山のあるお屋敷の庭跡や土手から水神さま(隅田川神社)へ行く両側には青藻の繁った汚れた水辺や池の道があったが。
ここでまた思い出したことがある。昭和20年8月15日、あの夏の暑い敗戦後のこと、私は思いもかけない現象に出会っている。それまでは黒く汚れた隅田川の流れが澄みきって綺麗な水に変っている。ほんの一時期―いつまで続いたのかはっきり覚えていないが―、隅田川が昔の姿を見せたのである。荒川、入間川、利根川等の源流が隅田川に緑の水を再び戻してくれた。何だか今考えると幻でも見たのか、それとも神の啓示を与えられたのか、とさえ思える経験であった。工場や民家も空襲で焼かれて廃水がなくなったからでもあるが、‘国敗れて山河あり’とは正にこのことである。隅田川はこんなに綺麗だったのかという実感を初めて味あわせてもらった。
子ども達は早速隅田川で泳ぎはじめた。危険といえば危険だが、子ども達は自然の気持ちよい水の中で思う存分自由に遊んだ。当時隅田川で泳いだ悪童たちは、今でもあの時の大いなる遊びの感触を忘れ難く思い出しては語り草にしている。
子どもの頃、自分の住んでいる向島の町は好きでなかった。よそ行きを着てたまに連れていかれるデパートのある銀座や日本橋、浅草の盛り場,ビルの街にあこがれた。
しかし、ある時、多分向島の道を歩いているときに、ある考えがふと頭に浮かんだ。
向島に路地や曲がった道が多いのは、かつて向島が農村であった時代の名残りだ。田んぼや畑の畦道が元になっているからだ。道路は造ったが区画整理はされてない向島。明治通りや水戸街道のことをよく改正道路と言っていた。明治通り、水戸街道は人工道だ。大正道路もそうだ。新しい道だ。古い道と新しい道が混在している。これは向島の街が出来あがっていく形成過程の姿をそのまま残している。(言い方を換えれば、未完のままと言ってもよい状態を止めている。)向島は変わったところだな,と思った。
その後、調べるというほどの気持ちはなかったが、興味を感じて、ときには地図などを見て過ごしていた。古い曲線状の道と新しい直線道が混在している向島。だんだん向島の道に対する関心は昂じたようだ。向島の道に対する気持ちが発酵するように視点も変わってきた。
向島は人の手によって大きな町並み造成をしたとか区画整理をした歴史はない。向島の道もまた昔の人が自然に生活しているうちに出来た道である。
そんなとき平成6年に、墨田区教育委員会主催の郷土史講座が開講したので参加した。
そこで荒川放水路ができる前の地図をみせられたりした。向島の道のなかには葛飾区の堀切から下千葉・綾瀬を経て陸前浜街道で松戸・水戸へ行く道がある。中川を渡って江戸川区平井聖天様への宗教道。さらに奈良時代、わが国最初の律令大国家が造った下総市川国府台から木更津へ行く古代官道・東海道もあることを知った。曳舟川や中居堀の道。地蔵坂通りの成立ち等々、新しい知識を得た。
計画的に一直線の延びた幹線道路は新しい道である。向島地区に明治道路、水戸街道など大道りが出来たのは昭和7、8年頃である。明治通りは予定環状道路として、水戸街道は幹線計画道路として、帝都復興事業が終わった後の課題処理として昭和2年決定の東京「都市計画街路網」によって昭和になって出来た道だ。
そこに斜めに交差していた曲がった道は昔の道である。明治道路や水戸街道が昔の道を切ってしまったのだ。180度考えが変った。
東京の他の区をみても、向島のような例は少ないようである。荒川区の都電荒川線(もと王電)沿線や北区の王子周辺、足立区南部北千住・五反野・本木周辺は向島と似通った所もあるが……。江戸の切り絵図が使える赤坂地区などの例はあるにしても、江戸時代の町作りの産物である。また、明治維新後区画整理された街、関東大震災後の都市改造の手が大なり小なり入った街もある。或いは、葛飾区・江戸川区などの戦後に開拓された周辺地区は田畑を区画整理して町並みを作った例が多い。
向島はそうではない。向島の町は、古代・中世までもさかのぼって寺島村・隅田村といわれた時代から人工的な町作りは一度もない。このことは江戸図・江戸郊外図を見てもわかる。また明治の近代図法で作った東京図を見ても江戸図の道筋がそのまま残っている。
向島の道は古代から現代にいたるまで残り続けて、生活道として立派に使われてきた。これほど貴重な文化財は唯一無比またとない。今しっかり保存しないと次の世代・未来へと引き継ぐものを失なってしまう。昔向島に住んでいた人々の心を伝えるものを残すことが今いる私たちの仕事でなくてはならないと考えた。
向島の道を書いていくうちにだんだん解かってきたこともあった。現在の向島の街が、どのような過程で出来あがってきたのか、それがはっきりしてきたことである。ゴミゴミした街もくねくね曲がっている道もちゃんとした理由があってのことである。荒川放水路の土手下には、どうしてこんな所に何で道があるのだ、と思うのがある。でも元を糾せば、野菜を生産するための畦道であったり、溝川(用水路)が道に変化したものであったり、境界道であったりする。ちゃんと存在の理由、存在価値があったことがわかる。綺麗か不整備かという価値観ではなく、人工の道か、自然に出来た道かで考えると理解できる。そういう眼で向島の道と町を見ていくと考えも変る。
向島の道について書き残しておくことは意味のないことでもない。誰かが読んでくれればいくらかでも郷土の理解に役立つと思い、「向島法人会だより」の頁ふさぎに書き続け、連載してもらった駄文を冊子にまとめることにした。
なお、「向島の道」と書いた向島は、旧向島区の地域と旧本所区でも北十間川沿岸道及び以北(向島寄り)の牛島も含んでいる。古い地名の牛島に含まれる須崎・小梅・中之郷・押上各村と請地村は土地柄から言って向島地区に属していたが、明治21年(1888)に公布された市制町村制のとき本所区に編入された経緯がある。
須田宿の渡しを通った古代ルートは、当初、東山道に属し海路を通って上総へ上陸するコースであった。このルートは奥州へも通じていたので、奥州街道とも呼んでいた。
宝亀2年(771)、相模国から武蔵国を経由して下総国へ至る陸路が開拓されるに及んで、須田の渡しは東山道から東海道に編入された。
従って、須田の渡船は東山道・奥州街道の時代は隅田側から石浜へ渡って武蔵・奥州へと経路は延びたが、東海道になった後は石浜側から隅田へ渡って下総市川へのコースに変わったことになる。
山の手と下町というコトバ、概念が現われた時期
今薬師道を歩いて薬師様に参詣する人はいない
向島の地に官道が通じていたという事実で、この地が昔から歴史の中に生きていたことがわかる。という点に気がつけば(観点に立てば)、価値観がわいてくる。
水運から陸上交通へという交通の変化、自動車道の増加と高速化を生み、かっての昔の道は新しい自動車道に主役の座を譲り、落ち着きと情緒を失はざるを得ない。
吾嬬町は交通の不便さ、それも水田地帯であったし、しかも向島でも最後まで手付かずで残っていた未開発地であったので、安価な新設工場の敷地として格好の場所であった。
煙突、コンクリート、鉄骨の柱、ブリキ色長い工場の壁、スレートの屋根、緑も少なく、なにか無機質な灰色の町という印象はぬぐい切れない。しかし今は煙突の煙があまり立たず、その分いま一つ元気がない。平成不景気のせいもあるが、大正から昭和にかけての一時の活気は消えている。
私たちの祖先からずーと使われてきて今も残っている向島の道は、私たちと祖先を繋ぐ唯一無比の貴重な記念物と言っても良い。これを考えないで全部取り壊して全く新しい街を作る計画だとしたら、それはそもそもよそ者の行政官が考えたいかにも浅知恵の小手先案でしかなくいただけない。そこに住んでいる住人が営々として残してきた歴史を無くしてしまう悪巧みを考え出したと同様である。長い歴史の染み込んだ道を無くす行為はある意味で一種の非文化的作業そのもので、何の言い訳も通用しない。
ふるさととしての手がかり、拠りどころである道をなくして、すみだのアイデンティティは失なわれてしまう。身も蓋も無い、あまりにもこころない寂しい仕業ではないか。
1つしかないから、価値がある。値段と値打は違う。箱の銘の意味、理屈がつくことで価値がある。日本の茶道、特別の遊びの世界、余裕、美学。NHKFM.8.6.2(日)
日曜喫茶室、列島文化と異質なもの、神崎宣武ノリタケ民族学
木造住宅が密集し、昔ながらの「下町コミュニティー」を残す墨田区向島地区、古い市街地が持つ良さを残しながら、新しい街づくりを
1998.7.17(金)読売朝江東判の記事
1998.7.16{木}読売夕、流砂の遠近法、日野啓三作家、変貌をやめない東京
道路幅を広げ……、道路の両側が高層化する、ビルになる、鉄筋コンクリート化する、無機質化する鉱物化する、という変化が、都心部の放射線道路だけでなく、環状道路でも、その外側の住宅地域の主要道路でも起こっている。
人がいて、道は生まれる。踏み分け道の昔から、道は人々の意志の結晶でした。そこに住む人々、利用する人々のたくさんの声を活かしてこそ後世に残る「いい道」は生まれてくるのではないでしょうか。みんなが参加し、さまざまな想いを語り、未来への夢を託セルせる、「人が主役の道づくり・町づくり」。ふる里の新しい試みが始まっています。
週刊文春、12月3日号(平成十年)社団法人九州地方計画協会
古代・中世隅田宿
墨田区という地を含めて、葛飾区,江戸川区,江東区は本来一つのまとまった地域で、昔から葛西という地名で呼ばれていた所である。昔は荒川放水路も無かったし、今の行政区画にもしばられていなかったので、一つの大きな一帯の地域を形成していた。
すみだは縄文時代には水の上に浮島みたいな小さな島(例えば弟橘姫の羽衣が流れ着いたという伝説がある吾嬬の森)が少しは顔を出していたかもしれないが、まだほとんど海であった考えられている。その頃は利根川を主流として荒川・江戸川(太日川)、綾瀬川・中川も利根川が枝分かれした下流であったし,入間川も鐘ヶ淵のところで合流していたので徐々に土砂が堆積されてきた。
弥生文化・古墳時代に下がると、その島の数があちらこちらに増えて(所謂、多島現象)、いくらか台地らしき景観が見える島も出現した。浮州の森・寺島・牛島・小村江・亀島等々である。古墳時代後半(6世紀~7世紀前半)大和朝廷王権が地方豪族に国造、その下に部民制度など敷いて進出してくる。その頃のことを語る伝承史料に「高橋氏文」(編纂されたのは平安時代)がある。これは高橋氏の祖先がヤマトタケルノミコト(景行天皇)に食事を捧げる朝廷職務に着いていた由来を語る文章であるが、このなかで、天皇への食膳貢物に葛飾野と安房で獲れた鰹・蛤・猪・鹿等を奉仕していたことが書かれている。大王=天皇へ食膳奉仕の起源の地に葛飾の地が選ばれていることはある意味でこの地方の歴史的重要性を物語るに充分な史料である。
飛鳥時代には、大化改新(645)を経て全国に国郡制がしかれ東国の交通路も整い、市川の台地に下総国府が置かれた。下総葛飾地方も交通路が開けた証拠である。
奈良時代になると、養老5年(721)の「正倉院文書」に下総国葛飾郡大嶋村の税金台帳と言うべき戸籍のが出てくる。甲和里(小岩)・仲村里(中川周辺部の奥戸・立石と思う)嶋俣里(柴又)等の村名が記載されている。墨田区も地つずきの関係でこの地域に入っていたとみるべきである。また、「続日本紀」の記述に、神護景雲2年(768)に、下総国井上(松戸)・浮島(隅田)・河曲(小岩)の三駅、「山海両路を承けて使命繁多なり。」とあり、宝亀2年(771)10月に武蔵国が東海道に編入され、隅田の渡津は武蔵国と下総国を結ぶ河畔の要衝となってますます繁栄したという事実を物語っている。
平安時代のはじめには、この地域を記録したものは伊勢物語の在原業平、業平塚の御霊信仰、梅若丸の墓=梅若塚の貴種流離譚がこの地を舞台にして現われている。隅田川ものと言われる数多くの文芸作品を生んだ梅若伝説は全国的にひろがった。また、康平2年(1059)以降成立した更級日記には、菅原孝標娘が父の任地の上総から帰京する歴史的物語にこの地域を書き残している。須田宿の渡しの二艘だった渡舟を倍の四艘に増やしたという太政官符の記録(承和2年・835)は、すみだの渡し場が須田宿という商業活動が営まれる人の集まる繁華街となり、、隅田千軒宿などというコトバにみえるほどの繁栄した場所でもあったことを裏付けている。
鎌倉時代のきっかけをつくった源頼朝旗揚げの事跡、「吾妻鏡」に詳しいが、‘すみだ’‘がここにも出てくる。頼朝が豊島の江戸氏に川止めをくわされた舞台となった場所は、隅田川の須田の渡し(隅田川神社付近)であり有名な話である。都内随一古い板碑が隅田地区の正福寺にあるが、鎌倉武士の供養塔であった板碑が隅田・向島の地に数多く出土したことはやはりこの地がそれなりの拠点であったことを示している。
以上のように考えてみると、葛西の一地区である‘すみだ‘は、結構日本史に残る大きな歴史文献史料に頻繁に登場してくるれっきとした場所であったことを示している。また、葛西御厨注文の記録から寺島・隅田など葛西地域の村々は、頼朝の重臣となった葛西清重が伊勢神宮に寄進した神領地であったこともわかる。最近の研究の成果によれば、葛西城などの発掘調査もあり、中世と古代のこの葛飾・すみだの様子が大分わかってきたようである。
康保4年(967)律令法の施行細則を集成した「延喜式」兵部省条に書かれている浮島牛牧についても、当時の官営牧場が今の牛島の地名に関係があった可能性はある。牛が臥したように低く細長く延びた草原に牛が放牧されていたとしても不思議ではない。
ところで、中世末期の室町及び戦国時代の墨田区を含めた葛飾地区は、江戸氏と石浜氏の争い(1346)、新田義興と足利尊氏の石浜合戦がある。関東管領上杉氏の支配を受けた間、東国国人の河越氏をはじめ江戸氏・豊島氏・葛西氏など平氏秩父流の平一揆や、関東管領上杉氏と古河公方足利氏の争いにも巻き込まれた。この争いの経過を簡単に述べてみる。青戸にあった葛西城はその頃上杉幕府管領側の最前線になる。管領側千葉氏に内部分裂が起こり幕府管領方は葛西と江戸に後退、太田道灌が援助する。隅田川東岸まで葛西城の守備範囲で古河公方方を牽制している。その内太田道灌が主君扇谷上杉氏によって殺害され、山内上杉氏との間に内乱をおこす。小田原北条氏がその機を狙い、江戸城を攻略し、天文6年(1537)に河越城、翌年葛西城も攻略される。天文6年には里見氏も太日川(江戸川)を挟んで北條軍と激戦を交える。結局北條軍が勝つ。永禄3年(1560)には上杉謙信が出陣、葛西城は反北條氏の手に落ちる。しかし翌年には謙信が撤退し葛西城はまたも北條氏のもとになる。永禄7年(1564)には里見義弘と北條氏康の第二次国府台合戦が勃発、葛西城のある葛西の地は両勢力の激戦の場となる。このように葛西は何度も戦乱の巷に陥り乱れた。
最後は、葛西は後北條氏の関東進出によりその支配地となるが、荒廃した様子が推測できる。
戦乱の合間永禄2年(1559)に出た「小田原衆所領役帳」にみえる寺島村を含めて葛西各村の役高・収穫量を示す数字は、葛飾郷が農村地帯であったこと裏付けていているだけで、地元葛飾の具体的な生きた村の様子を知る手がかりとなる史料はほとんど無い状態である。
徳川氏が江戸に入り江戸幕府が開府されると、江戸が政治の中心地になった。隅田川を越えた東岸の地・寺島村に旗本多賀氏の陣屋、太日川(江戸川)市川の対岸篠崎村に旗本本田家陣屋が配備された幕府史料があるが、この寺島・隅田をはじめ、葛西(葛飾)の地は、御前菜畑を抱えた野菜産地・農村地域であること以外、江戸期前期に関するかぎり、歴史の中から姿を消したように表れてこない。
近世江戸の葛西すみだは、むしろ中世の昔よりも遠い存在で、この頃の墨田区(旧寺島・隅田)の村の実生活を伝える記録が出てきていないので具体像は浮かんでこない。むしろ江戸という都の静かな近郊農村地域の地位におさまり、東国の重要な渡津として役割は返上したようである。徳川氏が江戸を政治の中心地を担って、五街道を新設し日本橋を五街道の起点として北国への出口に千住大橋を架設したり、隅田川に両国橋をはじめとして江戸中心地への交通路を通すことにより、地理的事情が変化した。それは隅田の渡しの街道上の役割低下を意味し、当然の如く重要性・必要性は落ちたことになる。隅田の渡しは脇街道となり、往時の繁栄は無くなり静かな農村へと変貌したのであろうと私は思っている。
それがようやく江戸の後半になり、隅田川向こうの地・寺島隅田を含めた向島墨堤の地が、江戸市民の近郊農村・緑多き閑静な名勝の地・行楽の場・富裕層の別荘地として再び歴史の場に脚光を浴びて登場してくるようになる。このへんになるとさすがに多くの歴史文化史料(詩歌・文芸・演劇・絵画・庭園・史跡等々)が残っている。江戸文化の中心的役割を担ったわけである。
以上のようにみてくると、古代・中世の時代には結構歴史の全国番的表舞台に登場してきた葛飾,すみだは、中世後期・戦国期から江戸中期までは歴史の表舞台から後退し、裏側に隠れてしまった。地元史料があまり残っていないので、‘すみだ‘に関してこの時期は空白地帯の如くわからぬ事が多い。
すみだの郷土は、古代・中世、それに江戸期後半に残る歴史史料のなかに見えてくるだけで、すみだの歩みのそのはかは静かに埋没状態のまま今はなかなかその姿を見せてくれない。
参考文献一覧